私について

Andrea Monti (アンドレア モンティ) は イタリアの弁護士です。主要取り扱い分野は、インターネット、バイオインフォマティクス、ハイテク法でクライアントはバイオテク研究所、ソフトウェアハウス、電気通信事業者、自動車製造業者、インターネットサービスプロバイダ、銀行、出版社などの中小および大企業です。堅実で豊かな学問的知識で多くのクライアントの信頼を受けています。
イタリアバイオテクノロジー法会議長を務め、中部イタリアのキエティローマの大学においても講義を行い、論文は国内外の学術誌で発表されています。日本をはじめ、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、チェコ、スイス、ブルガリアの国際会議で講演
イタリアの刑事弁護士専門学校と法執行訓練施設では「コンピュータ犯罪と著作権法」について講演しました。
モンティ氏が1995年からコンピュータ法について執筆している月刊誌PC Professionale はイタリアで最も古い業界紙1つです。 その他にも数多くの執筆記事やインタビューなどがLa RepubblicaIlSole24Oreなどイタリアの主要な日刊新聞雑誌に掲載されています。

主な出版物:

Spaghetti Hacher” Stefano Chiccarelliとの共著(Apogeo出版)

Segretispiecodici cifrati” Enrico Zimuel,Corrado Giustozziとの共著(Apogeo出版)

Trademark OnlineAlessia Ambrosiniとの共著(Hops Editore出版)

訳著:

The Inmates are Running the Asylum Alan Cooper(伊語タイトル”Il disagio tecnologico”)

Parkinson’s Law” Cyril N. Parkinson著 (伊語タイトル “La Legge di Parkinson”)

Privacy. A Very Short introdution“ Raymond Wacks(伊語タイトル “Privacy. Un sintetica introduzione”)

Ictlex.netは、モンティ氏がインターネット業界における法律、および政治文化についての考えなどを記しているブログで2005年、Reporter sans frontiéres(”国境なき記者団”)は、このブログにFreedom Blog Award 2005寄与。
blog.andreamonti.eu
は、英語圏の学者やビジネスマンにむけて、欧州連合のハイテク法の複雑さについて分かりやすく解説しているブログです

ブログ

COVID-19: ショートした人権と民主主義のブラックアウト

COVID-19の緊急事態下において、イタリア各地の州知事や市長たちによって発令される条令の数は日々増加の一途をたどっているが、それらは憲法に定められた国民の権利を、警察による取り締まりおよび処罰によって著しく制限している。 非常事態においては特に、国家憲法こそが力を持つべきで、内閣や国会は、このように簡単に特例を通すべきではない。まるで非常事態下では「やったもん勝ち。話は事態が落ち着いてから。」とでも言わんばかりである。 いずれにせよ、イタリアは一昔前に逆戻りし、大小様々に分断された自治体が、中央政権と五分五分ならまだしも、それ以上の権力を行使するところもあり、市民たちは2つの異なる権力の板挟みで、どちらの言うことを聞き、従うべきなのかもわからない状態だ。 これは過去に憲法第5章が改正され、公共の安全に関する決議が公布されたことによる余波とも言える。”都市の安全”もしくは”行政の安全”に対比するように仰々しく議論された公共の安全は、地方分権によって「公共の混乱」と「公共の不安」の基礎となる条件を社会にもたらした。 事態をさらに悪くしている原因として、市民や組織レベルにおける権利と役割に対する認識への誤解が挙げられる。時に研究者(“自称”研究者の場合もある)や専門家と呼ばれる人々でさえ、権利について誤った認識を持っていることがあり、それらは身勝手な権利の主張を招き、次回掲載予定の記事の中で使っている言葉”überdiritti”が意味する 「要求する人権」となり、彼らは国を含むあらゆる対象物の境界線を乗り越えて権利を主張するようになるのである。 私たち市民が自由に集ったり出歩いたりすることを、公機関によって制限されているという重大な事実に関して、研究者(“自称”研究者”の場合もある)や専門家は誰一人として疑問を投げ掛けることはないが、携帯電話のジオロケーション機能を使った、感染者の行動履歴の追跡システムなど、数々の重要で効果的な方法については、プライバシーの侵害防止のための個人情報保護法に反するなどと、基本法の遵守を言い訳に大切な時間を無駄にするばかり。国民の命に関わる非常事態で、公共の安全を守るために真に役立つであろう技術をいち早く導入する決定もできずにいる。 正義が抑圧された世界では、越権や不正が横行するものだが、それは悪の世界に限った話ではなく、地方の組織などにも当てはまるのかもしれない。 これら全ては一体誰の問題なのだろう。なぜ、人が死んだり、職を失っている今、このようなことを、案じる必要があるのか。その内容自体には何ら間違ったところはない措置や対策に横槍を入れるような言動は、人命を救うための行動を阻むことになりはしまいか。 答えは、 「あなたのやり方が、今も私の心を乱す」という、ダンテの不朽の名言の中にある。 これらの諸対策(条令)の内容そのものの重要性について議論の余地がないことは明らかであるが、問題はその”やり方”であり、その条令を発する権力の源がどこにあるのかということなのである。今、まさに戦時中のような状況下において、一人一人がヒエラルキーに則ってルールを守ることが基本中の基本であることは言うまでもなく、そうすることによってのみ、組織的にも個人的にも「すべてがすべての敵」となることを回避できるのである。 人権を取り巻く回路がショートを起こしてしまうと「規則なんて自分には関係ない」などと考える者が現れる。これまでも常に人々が恐怖と切望と共に考えてきた、”命令だけに従う人間”について、そして私たちの社会システムの支柱が砕かれることについて、考えずにはいられない。私たちは今、自分たちが鉄筋コンクリートで出来ていると思っていたら、実は泥よりも脆い存在であった、ということを明らかにされてしまったのだ。 人権がショートを起こすことで民主主義がブラックアウト(大停電)することは免れない。まさに今、このコロナウイルスの闇から抜け出すための出口を見出すための光が必要なときに。

ウイルス、統計、ビデオゲーム

コロナウイルス問題で集団ヒステリー状態の昨今、あまり有益ではないと思わされるような数値の取り上げ方がよく見受けられる。 感染者数と死亡者数、そして感染拡大のスピードを表すグラフの値は勢いよく増加しているが、これらのデータがどのような基準で作られているのかは不明であり、正しい統計学の知識に基づいて作られているのか、疑問が残るようなものもある。 ここで簡単な反対意見を述べてみたい。当然ながら、私は法律家であって統計学者ではないので、この問題について科学的な専門知識を元に語れるような肩書きなどは持っていないし、そのようなことをするつもりもない。高校と大学で学んだ数学と、Giancarlo Livraghi (アドバタイジングの権威で、統計学への深い造詣を持つ人物) そして Riccardo Puglisi (経済学者、まさに統計学のプロ)の両者が監修と翻訳に携わったDarrell Huffの著書「How to lie with statistics」のイタリア語版で学んだ統計学の知識をベースに、見解を述べるに留めたい。”真実”を伝えているわけではなく、ただ解答を得るために疑問を投げかけているのだ。 第一の見解。”コロナウイルスによる死亡者”と一括りにされた、様々な症状で亡くなった人たちは、統計上の標本データとしては条件が偏っており、年齢や持病の有無などを考慮せずに算出された死亡率は統計結果としては信頼性を欠いている。ウイルスによる致死率を算出するためには、 以前から慢性疾患があり、それにウイルス感染が加わった人、自覚はないものの別の病気にかかっていた人、特殊な状況下で感染を拡大させてしまった人など、様々なカテゴリー別に算出をすべきである。 第二の見解。 統計学的に有効なサンプルを検証して分析することは、条件の偏ったサンプルを分析することと全く別次元にある。例えて言うとこうなる。あるサッカーチームのファンの数を調べたいとき、そのチームのサポーターが大勢集まるサッカー場のゴール裏で回答を得た場合と、様々な都市や国の人たちから回答を得た場合とでは、統計結果に明らかな違いが表れるのは言うまでもない。偏った統計というのも、まるきり無駄だと言うわけではないが、それによって導かれる見解には限界があることを知る必要がある。 第三の見解(そして結果)。世界各国の感染者と死亡率の絶対値を、統計量を用いることなしに変えることも方法論としては間違っている。新聞がよくやるような「3,858件の症例における死亡率は4%」などの表現は、症例数と死者数の割合を大雑把に比較しているだけのもので、誤った一般論を導いてしまうだけである。 結論としては、相当数の統計量が得られないうちに結果を公表することについては、かなり慎重にならなければならない、ということである。 一つのアンケートに10人中の7人がある一定の回答した場合と、1万人中の7千人が同じく一定の回答をした場合、どちらも同じように70%の人が共通の回答をしたと言うことができる。しかし(標本データが統計学的に有効なものであることを大前提として)これら二つが統計として全く違う意味を持つことは至極明白である。 今回のコロナウイルスに関して、サンプルとして使われている数値が、統計学的に有効であるために充分な量であるか否かを知る必要がある。 充分な場合は、有効な情報を得ることができる統計結果と言えるが、そうでない場合、それはただのインスタントな情報に過ぎないのである。 Darrell Huff(イタリア語版あり)を再読してみるのも悪くないかもしれない。

親指プライバシー

“Il Fatto Quotidiano”誌に掲載されたこの記事には、ローマの機動警察隊員が一人の男を連行する際の画像が添えられているが、その一部にはモザイク加工が施されている。しかしながら、加工されているのは、カメラマンの前で意味深な表情を浮かべる犯罪者の顔ではなく、もはや全世界の共通語となった”いいね”を意味する、親指を立てた、その手なのである。 連行されている男の、どこかソワソワしたような表情は、映画祭のレッドカーペットを歩くスターや、勝利を祝うスポーツ界のトップアスリートのそれと何ら違いはなく、見る者に、悪逆非道な行いをすることで有名になれる(「ナルコス」や「ゴモーラ」などのテレビ番組のように)というような誤解すら招きかねない。 この、罪を犯した人間による”立てた親指”が示すものは明らかである。つまり、テレビや映画の中の作られた”栄光の瞬間”への欲望は、新聞の事件欄に出てしまうような事態においてさえ、何がなんでも注目を集めいたいという”知名度への渇望”に変化を遂げたということだ。 連行される男の画像の一部にモザイクを施すことを、一体誰(カメラマンもしくは編集者)が決めたのかは知る由もないが、いずれにせよ、もはや親指にも彼らのプライバシーを守る肖像権があるのだと考える以外に、この件についての賢明な判断を下すことはできない。