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このブログでは、日本人の学者やビジネスマンに欧州連合のハイテク法の複雑さを説明しています。

私について

Andrea Monti (アンドレア モンティ) は イタリアの弁護士です。主要取り扱い分野は、インターネット、バイオインフォマティクス、ハイテク法でクライアントはバイオテク研究所、ソフトウェアハウス、電気通信事業者、自動車製造業者、インターネットサービスプロバイダ、銀行、出版社などの中小および大企業です。堅実で豊かな学問的知識で多くのクライアントの信頼を受けています。

イタリアバイオテクノロジー法会議長を務め、中部イタリアのキエティローマの大学においても講義を行い、論文は国内外の学術誌で発表されています。日本をはじめ、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、チェコ、スイス、ブルガリアの国際会議で講演
イタリアの刑事弁護士専門学校と法執行訓練施設では「コンピュータ犯罪と著作権法」について講演しました。

モンティ氏が1995年からコンピュータ法について執筆している月刊誌PC Professionale はイタリアで最も古い業界紙の1つです。 その他にも数多くの執筆記事やインタビューなどがLa RepubblicaIlSole24Oreなどイタリアの主要な日刊新聞雑誌に掲載されています。

主な出版物:

COVID-19 and Public Policy in the Digital Age Raymond Wacks との共著 (2020 Routledge 出版)

Protecting Personal Information Raymond Wacks との共著 (2019 Hart 出版)

Spaghetti Hacker Stefano Chiccarelliとの共著(1997 Apogeo出版 – 2011 Monti&Ambrosini出版)

Segreti、spie、codici cifrati Enrico Zimuel,Corrado Giustozziとの共 (1999 Apogeo出版)

Trademark Online Alessia Ambrosiniとの共著(2001 Hops Editore出版)

訳著:

The Inmates are Running the Asylum Alan Cooper著 (伊語タイトル Il disagio tecnologico)

Parkinson’s Law Cyril N. Parkinson著 (伊語タイトル La Legge di Parkinson)

Privacy. A Very Short introduction Raymond Wacks著(伊語タイトル Privacy. Un sintetica introduzione)

Ictlex.netは、モンティ氏がインターネット業界における法律、および政治文化についての考えなどを記しているブログで2005年、Reporter sans frontiéres(”国境なき記者団”)は、このブログにFreedom Blog Award 2005寄与。
blog.andreamonti.eu は、英語圏の学者やビジネスマンにむけて、欧州連合のハイテク法の複雑さについて分かりやすく解説しているブログです

ブログ

日本はアングロサクソン系のインテリジェンスにおける「第6の目

になるのだろうか?昨今ファイブアイズと日本の、対中政策における関係性がより強固になっている兆候は拡大する一方であるが、第二次世界大戦による極東における歴史的背景と地政学的および経済的な諸問題を踏まえると、決して容易に判断できる問題とは言えまい。 アンドレア モンティ Chieti-Pescara 大学 公共秩序法専任教授。 トランプ大統領の攻撃的な対中政策によって崩された極東諸国間の均衡と、中国による西側諸国への爆発的攻勢は、日本が、米英•オーストラリア•ニュージーランド•カナダの5ヶ国による国際機密情報共有の枠組み(UKUSA協定)である”ファイブアイズ”のオフィシャルな「第6の目」になるという、晴れがましいニュースの発端となった。 前章西欧諸国の地政学の識者が、東におけるメンバーシップ拡大の必要性を唱え始めたのは2018年からである。この動きを支持するセールスピッチによれば「日本は、インテリジェンスの共有によって驚異的に優位な立場になるであろう。アメリカおよびその他の加盟国との連携により、強固な国防システムの構築も可能になるであろう。. アーサー ハーマン博士によるこの記事にあるように、これは(表向きには語られないが)単純な情報共有のための協定というよりむしろ、純粋な軍事同盟といっても過言ではない。 地政学的分析から外交関係へこの件に関する非公式な報道が出始めてから約2年後、2020年7月21日、初めての公式な制度に基づいた第一歩が踏み出された。産経新聞にあるように、最初のアクションを起こしたのが英国側であったのか、または”ザ ガーディアン誌”の記事の通り「日本の防衛大臣である河野太郎氏が”日本がシックスアイズになる”と提言した」ことが発端になったのかは明らかではない。 しかしこのテーマが純粋な地政学的分析という見地から、外交問題に関するそれへと領域を変えたことは明らかである。この変化については、ブレア英元首相の発言の内容を見ても明らかである。ジャパンフォワードの記事によると、2020年8月15日に産経新聞のインタビューに応じたブレア英元首相は、日本をファイブアイズのメンバーとして受け入れることに前向きな意向を示した。氏は「その然るべき理由として、我々には対中政策における共通の利害があることが挙げられる。当然考慮するべき選択肢であろう。」と語った。 批判的見解しかしながら、これはそれほど簡単なことではない。このような協定の公認には、文化的、政治的、経済的、言語的な、乗り越え難い問題が多々ある。西欧諸国にとっては、このプロジェクトで得られる利益は確かに大きいだろう。政策におけるテリトリー拡大も可能であろうし、台湾問題における中国の攻勢へ対する”包囲網”を作ることも出来るかもしれない。しかしながら日本は、ファイブアイズに参加することで払う代償に見合った恩恵を、中国との関係において必ずしも享受することが出来ないのではあるまいか。これは、ファイブアイズが政治戦略における選択肢の構成要素であるということを踏まえると非常に重要な一面である。 これには長いスパンにおいての一貫した目的の継続が前提条件となるが、それが極めて実現の難しいことであるのは明らかである。実際、日本はファイブアイズの他国メンバーと必ずしも一致しない単独のアジェンダを持っており、国益とは無関係な決定事項にも従わざるを得ない状況に陥る可能性もある。確かに”協定”の上では、加盟国それぞれが、ある特定の案件に関して同意しないことを自国の判断で決めることも認められてはいるが、日本と他の加盟国の根本的な違いを考慮すると、このような事態が日本にとって許容範囲を超える頻度で起きることもあるだろう。 批判的見解へ至る過程として、 新規加盟国のために用意された実質的ポジションという面から考えてみる。規約上では、すべての加盟国は政策において同じヴィジョンを共有し、同等の権利と義務(双方でスパイ行為をしないことを含め)を有していることになっている。しかし日本に関して言えば、実際はそうではない。なぜなら歴史的、文化的な違い、そして(忘れてはならないこととして)第二次世界大戦における敵対国であるという事実は、少なくともアメリカと日本の間において、平等な関係を築くことを許さないのである。この80年間に渡る東京とワシントンの関係は、非常に複雑なテーマであり、そう簡単に清算できるものではない。アメリカは日本の政治制度を破壊(1946年にポツダム宣言を受諾したことにより明治憲法は改正され、帝国主義に変わる民主主義に基づいた新たな憲法が制定された)した後、文化的そして人類学的に異なる基準に則って、日本社会の復旧を促したという事実を思い出して頂けるだろうか。 結果として、アメリカは日本に対して、おそらく目立たない形ではあるけれど、かと言って決して無視できないほどの影響を今も及ぼし続けている。このような関係を保ったまま、インテリジェンスの場においてのみ、日本がこのアンバランスな関係性から真に解放されるとは考えにくい。さらに、このインテリジェンス協定で欠かせない条件として、一本のチェーンのような情報ネットワークの中で、日本が脆いリングになることを回避するための基準適応が、日本側に強く問われることになる。このテーマについては、エドワード ルトラックがジャパンフォワードのインタビューに応える形で、より総合的な視点から論じているが、その中で彼は「日本には外務省の下で機能するフィールドサービスを持つイギリスのようなやり方が必要です。大き過ぎて支障を来すような、大袈裟なインテリジェンスなど必要なくて、簡単な機能を果たすだけの小さくて静かな諜報機関があればよいのです。 我々は、拳銃で誰かを打ち倒すためにそこらを練り歩く話しをしているわけではなく、シチュエーション アウェアネスを提供することができる地上機関の話をしているのです。他国の政府に干渉して軍事機密を盗んだり、人を殺したりする必要などないのですから。」と明確に述べている。 ルトラックが言うフィールドサービスおよびスパイ防止法の不在は、日本が「第6の目」になる上での越えがたい壁を象徴している。これらを備えることが協定参入のため条件であるということは、(2018年のハーマン博士による記述でも触れられているように) 実質的な日本の役割として、今後は自国そして他のパートナー国のためにも、”昔ながらの”スパイ行為の遂行を一層拡大していく必要性を示唆している。対中諜報活動において、文化的、民族的な意味でも”使い易い”人材を持つ日本以上に、パートナー国が西欧人諜報員を率先して中国に送り込むなどということは、有り得ないのだから。 結論対中政策を目的とするファイブアイズへの日本の参入は、短期間においては利益も見込まれるものの、長期に渡るにつれ次第に機能困難に陥り、この選択についての再考を余儀なくされる政治的な問題が生じるであろう。河野防衛大臣が「ファイブアイズに正式に加入する必要はない。日本は”事実上”参加するだけで充分で、”諸手続き”を重んじる必要は無い。」と明言した理由も、そこにあるのではなかろうか。 しかしながら、この選択の自由によって、日本は”正規メンバー”としての特権を得ることが出来ず、”ギブ•アンド•テイク”の関係性においても、受け取る価値よりはるかに多くの代償を払うリスクもあると言えるだろう。

COVID-19抗体検査 -スネークオイルと”権威の先生方”のレトリック-

その昔、病に絶望した人々は、ディベラ療法やスタミナ療法、さらに時を遡ればフィリピン療法など、数々の迷信じみた療法を信じた。しかしそれが今日のCOVID-19の危機に際しても繰り返されているという事実は、誠に不合理であるという他ない。コロナウイルスへの抗体の有無を自己診断できるという”抗体検査キット”が市販され、売り上げを伸ばしているという。その精度については甚だ当てにならないことは言うまでもないが、「ウイルスに感染したかどうか」を知るために有効だという認識を庶民へもたらしていることは明らかだ。 国の統治体制を形作るパーツでもある州そして企業は、人々が仕事に復帰出来るか否かを決定するための有効なツールになり得るという理由でこの抗体検査を推進し、新聞では”権威の先生方”の沈黙を激しく非難するように、「このスクリーニングを信用しないのはナンセンスである」と書き立てている。 実際には、保健省の発表にも明記されているように、血清サンプル一つの検査結果だけで正しい診断を下すことはできない。抗体の有無を瞬時に測定する検査キットの使用は、深刻な感染症に関しては不適当であり、地域社会への感染拡大のリスクをもたらすことにもなる。別種のコロナウイルス保有者や他の疾患を伴う患者などでは、抗体量の上昇が必ずしもSARS-CoV2によるものとは断定できないケースもあり、尚かつ抗体量の上昇がない(計測時点では陽性反応を示さない)という結果から、無症状感染もしくは、感染の潜伏期間である可能性を除外することは出来ない。 省庁などによる指示の”透明性”(あくまでも保健機関による象徴的なお役所言葉の域を越えない範囲で言えば)を持ってしても、恐怖は理性を脅かし、”自分の方が物事を良く知っている”という思い込みは、効果や実用性のはっきりしない検査キットの購入へと人々を後押しする。 逆にこれらについて権威の先生方(ジャーナリズム界に移り住んで来られた方々)は実際のところ何をご存知だというのか。「私、○○(“○○”にはコメンテーター、ジャーナリスト、テレビにゲスト出演するのが生業の人々、哲学者、インフルエンサーなどの名前)は何でも知っています!」とでも言いたげに物知り顔で現れる彼らが、トーキング•ヘッズ(デヴィッド•バーンとその仲間たちには限りない敬意を表した上で)と比べて、一体何をどれだけ知っているというのか。 当然ながら、全く何も知らないのだ。しかしながら、これは「オールマイティなエキスパート」が、科学的に有効な情報ではなく、自らの恐れと無知(ある一つの特殊な分野についての知識を持たないこと)から生じた持論を振りかざすことを阻む理由にはならない。それどころか、科学的な価値ある情報を「一般的な常識」の名の元に矮小化させてしまうことさえあるのだ。 そうして、このような無知によって増幅された恐怖の力が、我を忘れて新たな”スネークオイル”(迷信じみた療法)を探し求める、抑制不能な行動を呼び起こしてしまう。 もし奇跡のような製品が、”関節痛の治療”のために使われるのなら、それは決して悪くない。しかし、ウイルス感染対策として有効であるかのよう提唱することは、自分だけでなく他者に対しても重大な余波をもたらす。抗体検査キットの効力は未だ信頼に足るとは言えず、検査結果が示す意味を正しく解釈させる力にも欠けている。そして「私には抗体がありますから」や「私は感染してませんから」と言いながら誰かを感染させ、あるいは誰かに感染させられ、最後には「検査したのになぜ!?」と泣く、そんな結末を迎える可能性もあることを踏まえておかねばならないだろう。

COVID-19: ショートした人権と民主主義のブラックアウト

COVID-19の緊急事態下において、イタリア各地の州知事や市長たちによって発令される条令の数は日々増加の一途をたどっているが、それらは憲法に定められた国民の権利を、警察による取り締まりおよび処罰によって著しく制限している。 非常事態においては特に、国家憲法こそが力を持つべきで、内閣や国会は、このように簡単に特例を通すべきではない。まるで非常事態下では「やったもん勝ち。話は事態が落ち着いてから。」とでも言わんばかりである。 いずれにせよ、イタリアは一昔前に逆戻りし、大小様々に分断された自治体が、中央政権と五分五分ならまだしも、それ以上の権力を行使するところもあり、市民たちは2つの異なる権力の板挟みで、どちらの言うことを聞き、従うべきなのかもわからない状態だ。 これは過去に憲法第5章が改正され、公共の安全に関する決議が公布されたことによる余波とも言える。”都市の安全”もしくは”行政の安全”に対比するように仰々しく議論された公共の安全は、地方分権によって「公共の混乱」と「公共の不安」の基礎となる条件を社会にもたらした。 事態をさらに悪くしている原因として、市民や組織レベルにおける権利と役割に対する認識への誤解が挙げられる。時に研究者(“自称”研究者の場合もある)や専門家と呼ばれる人々でさえ、権利について誤った認識を持っていることがあり、それらは身勝手な権利の主張を招き、次回掲載予定の記事の中で使っている言葉”überdiritti”が意味する 「要求する人権」となり、彼らは国を含むあらゆる対象物の境界線を乗り越えて権利を主張するようになるのである。 私たち市民が自由に集ったり出歩いたりすることを、公機関によって制限されているという重大な事実に関して、研究者(“自称”研究者”の場合もある)や専門家は誰一人として疑問を投げ掛けることはないが、携帯電話のジオロケーション機能を使った、感染者の行動履歴の追跡システムなど、数々の重要で効果的な方法については、プライバシーの侵害防止のための個人情報保護法に反するなどと、基本法の遵守を言い訳に大切な時間を無駄にするばかり。国民の命に関わる非常事態で、公共の安全を守るために真に役立つであろう技術をいち早く導入する決定もできずにいる。 正義が抑圧された世界では、越権や不正が横行するものだが、それは悪の世界に限った話ではなく、地方の組織などにも当てはまるのかもしれない。 これら全ては一体誰の問題なのだろう。なぜ、人が死んだり、職を失っている今、このようなことを、案じる必要があるのか。その内容自体には何ら間違ったところはない措置や対策に横槍を入れるような言動は、人命を救うための行動を阻むことになりはしまいか。 答えは、 「あなたのやり方が、今も私の心を乱す」という、ダンテの不朽の名言の中にある。 これらの諸対策(条令)の内容そのものの重要性について議論の余地がないことは明らかであるが、問題はその”やり方”であり、その条令を発する権力の源がどこにあるのかということなのである。今、まさに戦時中のような状況下において、一人一人がヒエラルキーに則ってルールを守ることが基本中の基本であることは言うまでもなく、そうすることによってのみ、組織的にも個人的にも「すべてがすべての敵」となることを回避できるのである。 人権を取り巻く回路がショートを起こしてしまうと「規則なんて自分には関係ない」などと考える者が現れる。これまでも常に人々が恐怖と切望と共に考えてきた、”命令だけに従う人間”について、そして私たちの社会システムの支柱が砕かれることについて、考えずにはいられない。私たちは今、自分たちが鉄筋コンクリートで出来ていると思っていたら、実は泥よりも脆い存在であった、ということを明らかにされてしまったのだ。 人権がショートを起こすことで民主主義がブラックアウト(大停電)することは免れない。まさに今、このコロナウイルスの闇から抜け出すための出口を見出すための光が必要なときに。

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