日本はアングロサクソン系のインテリジェンスにおける「第6の目

になるのだろうか?昨今ファイブアイズと日本の、対中政策における関係性がより強固になっている兆候は拡大する一方であるが、第二次世界大戦による極東における歴史的背景と地政学的および経済的な諸問題を踏まえると、決して容易に判断できる問題とは言えまい。
アンドレア モンティ Chieti-Pescara 大学 公共秩序法専任教授。

トランプ大統領の攻撃的な対中政策によって崩された極東諸国間の均衡と、中国による西側諸国への爆発的攻勢は、日本が、米英•オーストラリア•ニュージーランド•カナダの5ヶ国による国際機密情報共有の枠組み(UKUSA協定)である”ファイブアイズ”のオフィシャルな「第6の目」になるという、晴れがましいニュースの発端となった。

前章
西欧諸国の地政学の識者が、東におけるメンバーシップ拡大の必要性を唱え始めたのは2018年からである。この動きを支持するセールスピッチによれば「日本は、インテリジェンスの共有によって驚異的に優位な立場になるであろう。
アメリカおよびその他の加盟国との連携により、強固国防システムの構築も可能になるであろう。. アーサー ハーマン博士によるこの記事にあるように、これは(表向きには語られないが)単純な情報共有のための協定というよりむしろ、純粋な軍事同盟といっても過言ではない。

地政学的分析から外交関係へ
この件に関する非公式な報道が出始めてから約2年後、2020年7月21日、初めての公式な制度に基づいた第一歩が踏み出された。産経新聞にあるように、最初のアクションを起こしたのが英国側であったのか、または”ザ ガーディアン誌”の記事の通り「日本の防衛大臣である河野太郎氏が”日本がシックスアイズになる”と提言した」ことが発端になったのかは明らかではない。

しかしこのテーマが純粋な地政学的分析という見地から、外交問題に関するそれへと領域を変えたことは明らかである。
この変化については、ブレア英元首相の発言の内容を見ても明らかである。
ジャパンフォワードの記事によると、2020年8月15日に産経新聞のインタビューに応じたブレア英元首相は、日本をファイブアイズのメンバーとして受け入れることに前向きな意向を示した。氏は「その然るべき理由として、我々には対中政策における共通の利害があることが挙げられる。当然考慮するべき選択肢であろう。」と語った。

批判的見解
しかしながら、これはそれほど簡単なことではない。このような協定の公認には、文化的、政治的、経済的、言語的な、乗り越え難い問題が多々ある。西欧諸国にとっては、このプロジェクトで得られる利益は確かに大きいだろう。政策におけるテリトリー拡大も可能であろうし、台湾問題における中国の攻勢へ対する”包囲網”を作ることも出来るかもしれない。
しかしながら日本は、ファイブアイズに参加することで払う代償に見合った恩恵を、中国との関係において必ずしも享受することが出来ないのではあるまいか。
これは、ファイブアイズが政治戦略における選択肢の構成要素であるということを踏まえると非常に重要な一面である

これには長いスパンにおいての一貫した目的の継続が前提条件となるが、それが極めて実現の難しいことであるのは明らかである。実際、日本はファイブアイズの他国メンバーと必ずしも一致しない単独のアジェンダを持っており、国益とは無関係な決定事項にも従わざるを得ない状況に陥る可能性もある。
確かに”協定”の上では、加盟国それぞれが、ある特定の案件に関して同意しないことを自国の判断で決めることも認められてはいるが、日本と他の加盟国の根本的な違いを考慮すると、このような事態が日本にとって許容範囲を超える頻度で起きることもあるだろう。

批判的見解へ至る過程として、 新規加盟国のために用意された実質的ポジションという面から考えてみる。
規約上では、すべての加盟国は政策において同じヴィジョンを共有し、同等の権利と義務(双方でスパイ行為をしないことを含め)を有していることになっている。しかし日本に関して言えば、実際はそうではない。なぜなら歴史的、文化的な違い、そして(忘れてはならないこととして)第二次世界大戦における敵対国であるという事実は、少なくともアメリカと日本の間において、平等な関係を築くことを許さないのである。
この80年間に渡る東京とワシントンの関係は、非常に複雑なテーマであり、そう簡単に清算できるものではない。
アメリカは日本の政治制度を破壊(1946年にポツダム宣言を受諾したことにより明治憲法は改正され、帝国主義に変わる民主主義に基づいた新たな憲法が制定された)した後、文化的そして人類学的に異なる基準に則って、日本社会の復旧を促したという事実を思い出して頂けるだろうか。

結果として、アメリカは日本に対して、おそらく目立たない形ではあるけれど、かと言って決して無視できないほどの影響を今も及ぼし続けている。このような関係を保ったまま、インテリジェンスの場においてのみ、日本がこのアンバランスな関係性から真に解放されるとは考えにくい。
さらに、このインテリジェンス協定で欠かせない条件として、一本のチェーンのような情報ネットワークの中で、日本が脆いリングになることを回避するための基準適応が、日本側に強く問われることになる。
このテーマについては、エドワード ルトラックがジャパンフォワードのインタビューに応える形で、より総合的な視点から論じているが、その中で彼は「日本には外務省の下で機能するフィールドサービスを持つイギリスのようなやり方が必要です。大き過ぎて支障を来すような、大袈裟なインテリジェンスなど必要なくて、簡単な機能を果たすだけの小さくて静かな諜報機関があればよいのです。 我々は、拳銃で誰かを打ち倒すためにそこらを練り歩く話しをしているわけではなく、シチュエーション アウェアネスを提供することができる地上機関の話をしているのです。他国の政府に干渉して軍事機密を盗んだり、人を殺したりする必要などないのですから。」と明確に述べている。

ルトラックが言うフィールドサービスおよびスパイ防止法の不在は、日本が「第6の目」になる上での越えがたい壁を象徴している。これらを備えることが協定参入のため条件であるということは、(2018年のハーマン博士による記述でも触れられているように) 実質的な日本の役割として、今後は自国そして他のパートナー国のためにも、”昔ながらの”スパイ行為の遂行を一層拡大していく必要性を示唆している。対中諜報活動において、文化的、民族的な意味でも”使い易い”人材を持つ日本以上に、パートナー国が西欧人諜報員を率先して中国に送り込むなどということは、有り得ないのだから。

結論
対中政策を目的とするファイブアイズへの日本の参入は、短期間においては利益も見込まれるものの、長期に渡るにつれ次第に機能困難に陥り、この選択についての再考を余儀なくされる政治的な問題が生じるであろう。河野防衛大臣が「ファイブアイズに正式に加入する必要はない。日本は”事実上”参加するだけで充分で、”諸手続き”を重んじる必要は無い。」と明言した理由も、そこにあるのではなかろうか。

しかしながら、この選択の自由によって、日本は”正規メンバー”としての特権を得ることが出来ず、”ギブ•アンド•テイク”の関係性においても、受け取る価値よりはるかに多くの代償を払うリスクもあると言えるだろう。

COVID-19抗体検査 -スネークオイルと”権威の先生方”のレトリック-

その昔、病に絶望した人々は、ディベラ療法やスタミナ療法、さらに時を遡ればフィリピン療法など、数々の迷信じみた療法を信じた。しかしそれが今日のCOVID-19の危機に際しても繰り返されているという事実は、誠に不合理であるという他ない。コロナウイルスへの抗体の有無を自己診断できるという”抗体検査キット”が市販され、売り上げを伸ばしているという。その精度については甚だ当てにならないことは言うまでもないが、「ウイルスに感染したかどうか」を知るために有効だという認識を庶民へもたらしていることは明らかだ。

国の統治体制を形作るパーツでもある州そして企業は、人々が仕事に復帰出来るか否かを決定するための有効なツールになり得るという理由でこの抗体検査を推進し、新聞では”権威の先生方”の沈黙を激しく非難するように、「このスクリーニングを信用しないのはナンセンスである」と書き立てている。

実際には、保健省の発表にも明記されているように、血清サンプル一つの検査結果だけで正しい診断を下すことはできない。抗体の有無を瞬時に測定する検査キットの使用は、深刻な感染症に関しては不適当であり、地域社会への感染拡大のリスクをもたらすことにもなる。別種のコロナウイルス保有者や他の疾患を伴う患者などでは、抗体量の上昇が必ずしもSARS-CoV2によるものとは断定できないケースもあり、尚かつ抗体量の上昇がない(計測時点では陽性反応を示さない)という結果から、無症状感染もしくは、感染の潜伏期間である可能性を除外することは出来ない。

省庁などによる指示の”透明性”(あくまでも保健機関による象徴的なお役所言葉の域を越えない範囲で言えば)を持ってしても、恐怖は理性を脅かし、”自分の方が物事を良く知っている”という思い込みは、効果や実用性のはっきりしない検査キットの購入へと人々を後押しする。

逆にこれらについて権威の先生方(ジャーナリズム界に移り住んで来られた方々)は実際のところ何をご存知だというのか。「私、○○(“○○”にはコメンテーター、ジャーナリスト、テレビにゲスト出演するのが生業の人々、哲学者、インフルエンサーなどの名前)は何でも知っています!」とでも言いたげに物知り顔で現れる彼らが、トーキング•ヘッズ(デヴィッド•バーンとその仲間たちには限りない敬意を表した上で)と比べて、一体何をどれだけ知っているというのか。

当然ながら、全く何も知らないのだ。しかしながら、これは「オールマイティなエキスパート」が、科学的に有効な情報ではなく、自らの恐れと無知(ある一つの特殊な分野についての知識を持たないこと)から生じた持論を振りかざすことを阻む理由にはならない。それどころか、科学的な価値ある情報を「一般的な常識」の名の元に矮小化させてしまうことさえあるのだ。

そうして、このような無知によって増幅された恐怖の力が、我を忘れて新たな”スネークオイル”(迷信じみた療法)を探し求める、抑制不能な行動を呼び起こしてしまう。 もし奇跡のような製品が、”関節痛の治療”のために使われるのなら、それは決して悪くない。しかし、ウイルス感染対策として有効であるかのよう提唱することは、自分だけでなく他者に対しても重大な余波をもたらす。抗体検査キットの効力は未だ信頼に足るとは言えず、検査結果が示す意味を正しく解釈させる力にも欠けている。そして「私には抗体がありますから」や「私は感染してませんから」と言いながら誰かを感染させ、あるいは誰かに感染させられ、最後には「検査したのになぜ!?」と泣く、そんな結末を迎える可能性もあることを踏まえておかねばならないだろう。

COVID-19: ショートした人権と民主主義のブラックアウト

COVID-19の緊急事態下において、イタリア各地の州知事や市長たちによって発令される条令の数は日々増加の一途をたどっているが、それらは憲法に定められた国民の権利を、警察による取り締まりおよび処罰によって著しく制限している。

非常事態においては特に、国家憲法こそが力を持つべきで、内閣や国会は、このように簡単に特例を通すべきではない。まるで非常事態下では「やったもん勝ち。話は事態が落ち着いてから。」とでも言わんばかりである。

いずれにせよ、イタリアは一昔前に逆戻りし、大小様々に分断された自治体が、中央政権と五分五分ならまだしも、それ以上の権力を行使するところもあり、市民たちは2つの異なる権力の板挟みで、どちらの言うことを聞き、従うべきなのかもわからない状態だ。

これは過去に憲法第5章が改正され、公共の安全に関する決議が公布されたことによる余波とも言える。”都市の安全”もしくは”行政の安全”に対比するように仰々しく議論された公共の安全は、地方分権によって「公共の混乱」と「公共の不安」の基礎となる条件を社会にもたらした。

事態をさらに悪くしている原因として、市民や組織レベルにおける権利と役割に対する認識への誤解が挙げられる。時に研究者(“自称”研究者の場合もある)や専門家と呼ばれる人々でさえ、権利について誤った認識を持っていることがあり、それらは身勝手な権利の主張を招き、次回掲載予定の記事の中で使っている言葉”überdiritti”が意味する 「要求する人権」となり、彼らは国を含むあらゆる対象物の境界線を乗り越えて権利を主張するようになるのである。

私たち市民が自由に集ったり出歩いたりすることを、公機関によって制限されているという重大な事実に関して、研究者(“自称”研究者”の場合もある)や専門家は誰一人として疑問を投げ掛けることはないが、携帯電話のジオロケーション機能を使った、感染者の行動履歴の追跡システムなど、数々の重要で効果的な方法については、プライバシーの侵害防止のための個人情報保護法に反するなどと、基本法の遵守を言い訳に大切な時間を無駄にするばかり。国民の命に関わる非常事態で、公共の安全を守るために真に役立つであろう技術をいち早く導入する決定もできずにいる。

正義が抑圧された世界では、越権や不正が横行するものだが、それは悪の世界に限った話ではなく、地方の組織などにも当てはまるのかもしれない。

これら全ては一体誰の問題なのだろう。なぜ、人が死んだり、職を失っている今、このようなことを、案じる必要があるのか。その内容自体には何ら間違ったところはない措置や対策に横槍を入れるような言動は、人命を救うための行動を阻むことになりはしまいか。

答えは、 「あなたのやり方が、今も私の心を乱す」という、ダンテの不朽の名言の中にある。

これらの諸対策(条令)の内容そのものの重要性について議論の余地がないことは明らかであるが、問題はその”やり方”であり、その条令を発する権力の源がどこにあるのかということなのである。今、まさに戦時中のような状況下において、一人一人がヒエラルキーに則ってルールを守ることが基本中の基本であることは言うまでもなく、そうすることによってのみ、組織的にも個人的にも「すべてがすべての敵」となることを回避できるのである。

人権を取り巻く回路がショートを起こしてしまうと「規則なんて自分には関係ない」などと考える者が現れる。これまでも常に人々が恐怖と切望と共に考えてきた、”命令だけに従う人間”について、そして私たちの社会システムの支柱が砕かれることについて、考えずにはいられない。私たちは今、自分たちが鉄筋コンクリートで出来ていると思っていたら、実は泥よりも脆い存在であった、ということを明らかにされてしまったのだ。

人権がショートを起こすことで民主主義がブラックアウト(大停電)することは免れない。まさに今、このコロナウイルスの闇から抜け出すための出口を見出すための光が必要なときに。

ウイルス、統計、ビデオゲーム

コロナウイルス問題で集団ヒステリー状態の昨今、あまり有益ではないと思わされるような数値の取り上げ方がよく見受けられる。

感染者数と死亡者数、そして感染拡大のスピードを表すグラフの値は勢いよく増加しているが、これらのデータがどのような基準で作られているのかは不明であり、正しい統計学の知識に基づいて作られているのか、疑問が残るようなものもある。

ここで簡単な反対意見を述べてみたい。当然ながら、私は法律家であって統計学者ではないので、この問題について科学的な専門知識を元に語れるような肩書きなどは持っていないし、そのようなことをするつもりもない。高校と大学で学んだ数学と、Giancarlo Livraghi (アドバタイジングの権威で、統計学への深い造詣を持つ人物) そして Riccardo Puglisi (経済学者、まさに統計学のプロ)の両者が監修と翻訳に携わったDarrell Huffの著書「How to lie with statistics」のイタリア語版で学んだ統計学の知識をベースに、見解を述べるに留めたい。”真実”を伝えているわけではなく、ただ解答を得るために疑問を投げかけているのだ。

第一の見解。”コロナウイルスによる死亡者”と一括りにされた、様々な症状で亡くなった人たちは、統計上の標本データとしては条件が偏っており、年齢や持病の有無などを考慮せずに算出された死亡率は統計結果としては信頼性を欠いている。ウイルスによる致死率を算出するためには、 以前から慢性疾患があり、それにウイルス感染が加わった人、自覚はないものの別の病気にかかっていた人、特殊な状況下で感染を拡大させてしまった人など、様々なカテゴリー別に算出をすべきである。

第二の見解。

統計学的に有効なサンプルを検証して分析することは、条件の偏ったサンプルを分析することと全く別次元にある。例えて言うとこうなる。あるサッカーチームのファンの数を調べたいとき、そのチームのサポーターが大勢集まるサッカー場のゴール裏で回答を得た場合と、様々な都市や国の人たちから回答を得た場合とでは、統計結果に明らかな違いが表れるのは言うまでもない。偏った統計というのも、まるきり無駄だと言うわけではないが、それによって導かれる見解には限界があることを知る必要がある。

第三の見解(そして結果)。世界各国の感染者と死亡率の絶対値を、統計量を用いることなしに変えることも方法論としては間違っている。新聞がよくやるような「3,858件の症例における死亡率は4%」などの表現は、症例数と死者数の割合を大雑把に比較しているだけのもので、誤った一般論を導いてしまうだけである。

結論としては、相当数の統計量が得られないうちに結果を公表することについては、かなり慎重にならなければならない、ということである。

一つのアンケートに10人中の7人がある一定の回答した場合と、1万人中の7千人が同じく一定の回答をした場合、どちらも同じように70%の人が共通の回答をしたと言うことができる。しかし(標本データが統計学的に有効なものであることを大前提として)これら二つが統計として全く違う意味を持つことは至極明白である。

今回のコロナウイルスに関して、サンプルとして使われている数値が、統計学的に有効であるために充分な量であるか否かを知る必要がある。

充分な場合は、有効な情報を得ることができる統計結果と言えるが、そうでない場合、それはただのインスタントな情報に過ぎないのである。

Darrell Huff(イタリア語版あり)を再読してみるのも悪くないかもしれない。

親指プライバシー

“Il Fatto Quotidiano”誌に掲載されたこの記事には、ローマの機動警察隊員が一人の男を連行する際の画像が添えられているが、その一部にはモザイク加工が施されている。しかしながら、加工されているのは、カメラマンの前で意味深な表情を浮かべる犯罪者の顔ではなく、もはや全世界の共通語となった”いいね”を意味する、親指を立てた、その手なのである。

連行されている男の、どこかソワソワしたような表情は、映画祭のレッドカーペットを歩くスターや、勝利を祝うスポーツ界のトップアスリートのそれと何ら違いはなく、見る者に、悪逆非道な行いをすることで有名になれる(「ナルコス」や「ゴモーラ」などのテレビ番組のように)というような誤解すら招きかねない。

この、罪を犯した人間による”立てた親指”が示すものは明らかである。つまり、テレビや映画の中の作られた”栄光の瞬間”への欲望は、新聞の事件欄に出てしまうような事態においてさえ、何がなんでも注目を集めいたいという”知名度への渇望”に変化を遂げたということだ。

連行される男の画像の一部にモザイクを施すことを、一体誰(カメラマンもしくは編集者)が決めたのかは知る由もないが、いずれにせよ、もはや親指にも彼らのプライバシーを守る肖像権があるのだと考える以外に、この件についての賢明な判断を下すことはできない。

人工知能と”中性形”の重要性

ジャーナリストのシモーネ•コジミ氏は、レプブリカ誌に掲載された記事において、「囲碁(中国由来のゲームであるが、何世紀も前から日本や韓国で親しまれており、氏も文中では”碁”(go)という日本での名称を用いている。)において、コンピューターは人間よりも強い。」という、お決まりの主張を再提示している。

厳格な意味論は別として、コンピューター(ソフトウェアと言った方が良いかもしれないが)が人間よりも「強い」というのは、もうニュースとは言えない。本当に優れたコンピュータープログラムを使ってトレーニングしているチェスのプレーヤーであれば、誰もが知るところであるが、一般向けに開発されたソフトウェアでさえ、その世界のプロ、さらにはチャンピョン達を困難に陥れるほど進化しているということは、もはや周知の事実なのである。

しかしながら、そこから「人間より知能の高いシステム」という表現に至る(あるいはそのように暗示させる)のは、いささか早計ではあるまいか。それはまるで、どんな優秀な溶接工にも出来ないような完璧な技術を持つ溶接ロボットに”思考力”があると言っているようなものである。

そこで私は考える。問題は、言語表現における”中性形”というカテゴリーの不在(消失と言うべきかもしれないが)にあるのではないか。言葉によって惑わされていることもあるのではないだろうか。ソフトウェアは学習もしなければ、記憶も、そして理解もしない。彼らに出来るのは、様々な自動制御レベルで備わっている機能を、ただ変更することだけである。

科学的な概念について、専門用語を羅列することなく表現するためには、我々が日常的に使っている”普通”の言葉は役に立たない。(例えば、ドイツの哲学者イマヌエル•カントは、著作「純粋理性批判」の中で、実に13種類もの異なるニュアンスで、「超越論的な」という単語を使用しているが、それらは我々が日常的に使用する言葉の中にはない表現である。日常的に使用する言葉で、専門的な科学の概念を正確に表現することは不可能なのであるが、大衆に分かり易く伝えるためには、より単純な言葉を用いる必要があることも、また避けられない事実である。しかし、それによって言葉が持つメッセージを誤って解釈することも起きてしまうのである。

もし私が、囲碁の対局に関する記事で人工知能について触れるとして、”人工知能”という名詞を女性形で表現する場合、私はべつに、この人工知能が人間のような存在、ましてや女性であるなどと言いたいわけではないのである。しかしながら、主語である”人工知能(ソフトウェア)”という名詞が女性形であることにより、読者の意識の中では、ソフトウェアがまるで人間のようなものである、というような考えが芽生えてしまうのである。 もし我々がイタリア語ではなく、まだラテン語を話していたならば、女性形でも男性形でもない中性形を用いて、人工知能について語ることが出来たであろう。そして読者は、それが人間が作った素晴らしいテクノロジー機器についての話題であり、決して人間について語っているものではないのだと、すぐに理解することが出来たであろう。

「一般データ保護規則とイタリアデータ保護法」

NEAR Project(Jean Monnet Networks)共催

<NEAR: A New Dimension in Asia-Europe Relations: Exploring EU’s Global Actorness and Strategic Partnership in Asia (China, India, Japan and South Korea)>

116th Keio Jean Monnet Workshop for EU Studies

第116回 慶應EU研究会のお知らせ 日頃よりお世話になっております。

各位

以下の通り第116回慶應EU研究会のご案内をお送り致しますので、よろしければ是非ご参加下さい。

日時: 2019年 7月19日(金)17:00~18:00
Date: 19 July 2019 17:00-18:00

研究報告 (EU研究ワークショップ・EU法セミナー):

場所: 慶應義塾大学三田キャンパス南館地下1階2B15教室

Venue: B1st Floor, Room 2B15, South Building, Mita campus, Keio University

「一般データ保護規則とイタリアデータ保護法」

(英語)

アンドレア・モンティ弁護士(イタリア)

(イタリア・キエーティ=ぺスカラ大学非常勤講師)

“General Data Protection Regulation and the Italian Data Protection Law”

(English)

Sig. Avvocato Andrea Monti
Adjunct Professor, Università di Chieti-Pescara

庄司克宏(Katsuhiro SHOJI)
慶應義塾大学大学院法務研究科(法科大学院)教授
Professor, Law School, Keio University
ジャン・モネ・チェア(Jean Monnet Chair ad personam)
ジャン・モネEU 研究センター(慶應義塾大学)所長
Director, Jean Monnet Centre of Excellence for EU Studies at Keio University
問合せ(Queries):
fumifigo@keio.jp(事務局長:東史彦(Dr. AZUMA))
yhosoi@ner.takushoku-u.ac.jp(事務次長:細井優子(Dr. HOSOI))

de (GDPR) minimis non curat praetor

Dresden Oberlandesgerichtにより発行された決定4 U 760/19は、軽度の不法行為はデータ保護法では扱われていないと述べました。
これはGDPR分野への古いローマの格言 “de minimis non curat praetor”の応用です。
これは、「耐え難い苦痛」と「悪い評判」に基づく軽微な損害で実際に解決されている「プライバシー侵害」に対する多数の主張の強力な阻止であるため、非常に重要です。

さらに、この決定は、GDPR違反が実際に害を及ぼさないのであれば、データ保護当局がデータ管理者を処罰する可能性に挑戦するものです。